民族

 「バーバー」すなわち「アフガニスタンの父」と呼ばれるパシュトゥン人、アフマド・シャーが、1747年に王位についた際、数多くの部族を一つの国家に統一することに成功した。初めて開かれたロヤ・ジルガにおいて国家統合を果たしたアフマド・シャー・バーバーは、政治家としての才能に恵まれたと言える。彼は、部族長で構成する議会の助けを借りて統治することで、うまく部族派閥間のバランスをとった。各部族は男たちの独自の選択によって支配されていたため、各々の派閥に大幅な自治権を与えたのである。アフマド・シャー・バーバーは自らの権威に対抗する可能性のある人々、とりわけ山岳地域に住むランリのハターク族に対して強行に威圧することをしなかった。しかし、征服の手助けに対して公平に報酬を与えることでこのような抵抗部族と提携を結んだ。こうした征服活動が、数千年にも及ぶ交戦と交易によって非常に多様化していたアフガニスタンの人々の統一を強化するのに役立ったのである。アフマド・シャーのよく知られた戦いの一つは、1761年に北インドの一部を占拠した第三次パーニーパットの戦いである。存命中に軍隊が被った損失や統治期直後に数年間に渡って強固な指導力が欠落したことにより、彼が占領した地域のほとんどは王国の領土として残らなかったが、アフマド・シャーの治世の時代には、アフガニスタンの強さは周辺地域でも顕著であった。1818年以降、1826年にドースト・ムハンマドが統制力を発揮するまでの間、王座を狙う人々が権力を巡って競い合い、ドゥッラーニー朝は再び混乱に支配されることとなった。この動乱の時代、アフガニスタンは統一国家として存在することはなかった。

 アフマド・シャーが王座に就いたとき、人々は多くの集団に分かれており、そのいくつかは民族的起源を究明することすら困難であった。 多くの部族は出自を辿っていくと古代アーリア人に行き着いたが、他にトルコ系の子孫である部族もいた。今日までアフガニスタン南東部にはパシュトゥン人が多く居住している。彼らが用いるインド・ヨーロッパ系の言語、パシュトゥー語は、多くの人々が使用している。パシュトゥン民族には多くの部族が含まれており、ギルザイ族やドゥッラーニー族、またワルダック族、ジャジ族、タニ族、ジャドラン族、マンガール 族、ホギアン族、サフィ族、モマンド族、シンワリ族がある。

 国の南部に居住するその他の民族は、バルーチ族である。バルーチ族に関して最初に言及されたのは、10世紀以降のことである。バルーチの人々はほとんどが遊牧民であるが、乾地農業を生活の糧としている人々もいる。バルーチ族の人々は政治的に、パキスタンやイラン、アフガニスタンと分断されている。かつてバルーチスタンと呼ばれたその領土は、ほんの一時的には国家とみなすことも考えられていたが、石器時代にも遡る人類の考古学的な証拠を有しており、最も重要なものは、現在はパキスタンのメフルガーンにある新石器時代の遺跡(紀元前7,000~3,000年)である。バルーチ族の民族史については、その起源をアーリア人と主張する学者とノアの甥の子孫とされるセム族であるとする学者の間で意見が分かれている。しかし、かつてのバルーチスタンの地理的な位置からすると、彼らがおそらくアシュカニ族、クシャン族、フン族、スキタイ人、パタン族、 チュルク族、サカ族などの多くの種族と同様に、バルーチ族と様々な種族との混血であることは確かである。おそらくモンゴル人の中央アジア侵略が、よく知られる1,200年頃のカスピ海からのバルーチ族の移動の原因であった。バルーチ族はスンニ派ムスリムで、イランから移住してきたのであり、当然のことながらその言語はペルシャ語のインド・ヨーロッパ語族に近い。彼らについては、10世紀の偉大なペルシャの叙事詩「シャー・ナーメ」すなわち王の書の中で言及されている。アフガニスタン南西部はヘルマンド県のように主に砂漠もしくは半砂漠地帯であり、バルーチ族は駱駝の飼育でも有名である。 彼らの中には、ファイヤーブ県へと北に移住した者もあり、正確な人口規模は分かっていない。

 タジク人もまた、アフガニスタンの大きな民族である。彼らは、現在は主に山脈や高原の多い国の北東地域に居住しているが、西部地域にも見ることができ、多くのタジク人が暮らしている。この、大部分がスンニ派ハナフィー学派のムスリムであり、ダリー語を話し、長い時間をかけてチュルク文化を取り込んできた。 タジク人は、土や石でできた平屋根の家屋の集落を築き、小麦や大麦、キビの灌漑農業を行なった定住民であり、メロンなどの果樹園でも有名である。高度に発達した彼らの技術は、現在のアフガニスタン、ローマ時代からペルシャを通り中国やインドに至るシルクロードの一部であったこの地域を行き来する隊商に重宝された。タジク人はパシュトゥン人と同じようにカフカス人であり、髪の色は薄茶色が多く、目の色は緑の者もおり、肌の色は薄く、また部族に分かれていない。人里離れた山岳地域のタジク人には、シーア派のムスリムもいる。

 アフガニスタンの中央高原には、ハザラ人が住んでいる。ハザラ人は主にチュルク語やモンゴル語の言葉をいくつか含むダリー語の方言であるハザラ語を話す。大多数はシーア派ムスリムである。

 ウズベク人はアフガニスタン北部に多く住む民族であり、中央アジア東チュルク地域に起源を置く。東チュルク語派に関係のあるアルタイ語系の言語を使用し、さらに独自の言語を持つトゥルクメン人もいる。肌の色が薄く、大部分は農業従事者か育種家で、カラクル羊や並外れた馬の品種で知られている。ウズベキスタン共和国はこの地域のちょうど北側にあり、 1920 年代には、ソ連が彼らの習慣やスンニ派ムスリムの宗教的信仰を踏みにじろうとすることから避難するため、多くのウズベク人がアフガニスタン北部に移住した。

 アイマク人は、トルクメニスタンやイランとの国境に近いヘラート州を含むアフガニスタンの北西部に住んでおり、主にダリー語を話す。アイマク人は、 1600 年ごろに統一したタイマニ、フェローズコヒ、ジャムシディ、そしてハザラの 4 つの主要な部族から成っている。

 ヒンドゥークシュ山脈の北方、ワハン回廊最北東部のアム・ダリヤに近い大草原には、キルギス人が暮らしている。この山岳地域で農耕することは不可能だ。キルギス人は伝統的には東チュルク語を話すが、ダリー語も使用する。チュルク系の人々すなわちアルタイ諸語の亜族とされるチュルク諸語を話す人々は皆、中央アジアに起源を持つと信じられている大部族の子孫である。 キルギス人は南方に移住した。彼らのうちの多くはスンニ派イスラームを信仰しており、伝統的にはヤクを飼育する遊牧民である。男性は柔らかくて大きな皮のブーツを履き、マントを纏い、その上にベルトで結び、ターバンを巻いている。女性は色鮮やかな裾の長い服の下にゲートル ( 脚反 ) を身につけている。

 トゥルクメン人はアフガニスタンの北西部に住んでいる。大多数は、旧ソ連の崩壊によって建設された自らの国家、トルクメニスタンを構成しており、国家の全人口に対しては少数派ではあるが、アフガニスタンにもかなり多くの人々が住んでいる。トゥルクメンという言葉には「光から作られた」という意味がある。アフガニスタンのトゥルクメン人コミュニティは勤勉で平和を愛することで知られており、ウズベク人と同様に肌の色は薄く、多くは独自の言語を持っている。カフカスと中央アジア、そしてカスピ海を越えてイランへと繋ぐ交易路は、元来のトゥルクメン人地域を通っていたが、歴史上の紛争、特に最近のロシアとの対立により、相当数が故郷を離れ、他地域に暮らしている。オスマン帝国が通常用いた強制というやり方によってではなく、むしろトゥルクメンの土地の購入や結婚を通して、トゥルクメン人たちはオスマン帝国の伝統に同化していた。

 ヌーリスタン人はナンガハル県の北東部、北東アフガニスタンの山岳地帯に住んでいる。ヌーリスタンとは、「光の地」を意味し、 1885 年にイスラームを受け入れたとき、彼らの領土に与えられた名前である。彼らは、インド・ヨーロッパ語族のインド・アーリア語派に属するカーフィル語 ( =ヌーリスタン語 ) を話す。アフガニスタン人は、アミール・アフドゥル・ラフマン・ハーンに率いられ、 1895 年にヌーリスタンを征服し、変容させた。圧倒的にスンニ派ムスリムの多いヌーリスタン人は、氏族組織を持つ農耕民族である。 5,000 平方マイルのヌーリスタン領土は、ほとんど徒歩で簡単に行き来できる近山や森林地域である。狭い谷間では小麦、大麦、エンドウやメイズ、低地では葡萄や桑の木が栽培されている。ヌーリスタン人はまた、高地の広い谷間ではヤギや多少の牛、そして羊も少数飼育している。彼らの外見は、周囲のパシュトゥン人やタジク人のように地中海人種により近い。

 パミール族はパキスタンとタジキスタンの国境沿いの地域に住んでいる。パミール族の領土は、 1813 年から 1907 年までの帝政ロシアとイギリス帝国による「グレートゲーム」において重要なカギとなった。 1979 年から 1989 年まで、アフガニスタンへのソ連の軍事侵攻の主要な供給路としての役割を担った際、この地域は再びソ連にとって戦略的重要性を帯びることになった。多くの地帯で 6,000m を超える山々に対して畏敬の念を抱くペルシャ人は、この地域をまず「世界の屋根」と呼んだ。 この不安定な地域を物資輸送に利用したのはソビエトが初めてではなかった。ローマ時代には、シルクロードはタジキスタンとアフガニスタンとの国境に沿って南西パミールの峠を越えていた。古代の落書きや墓、考古学的な発掘現場が発見され、この地域の歴史を物語ってきたのである。パミール地方は 1925 年にタジク・ソビエト社会主義共和国とアフガニスタンの間で分割された。ロシャン、シンナン、ワハンの左斜面はアフガニスタンに、右斜面はそのままソビエトに残った。パミール族の主な集団は、ワヒ族 ( シーア派イスマイル派 ) 、パラチ、オームリであり、みなワヒ , ケルゲス、ヤズクラシ、エ シュカシム、シュグニ・ロシャニなどの古いダリー語 ( アヴェスター語 ) の方言を話す。

 さらに少数の集団であるキジルバシュ人は、ある領域を支配するためにアフガニスタンに派遣されたと信じられているナーディル・シャー・アフシャーリーのアフシャール族衛兵の子孫である。アフマド・シャー・ドゥッラーニーはキジルバシュ人を重用し、彼らとパシュトゥン人との間に幾度かの戦闘を引き起こした。フガニスタンの領土へと溢れ出るまで、イランで 2 世紀に渡ってペルシャを支配した。彼らは最も識字人口の高い伝統があり、それゆえ、頻繁に専門家の学会や政府組織に参加していた。 ナーディル・シャー・アフシュールは 1747 年にアフガニスタンの最初のアミールとなったアフマド・シャー・ドゥッラーニーの直前の支配者である。キジルバシュ人は主に都会に住み、多くはカブールに居住しているが、ガズニやカンダハールなどのその他の都市にもかなりの人数が暮らしている。キジルバシュという言葉はチュルク語で赤毛を差す言葉であり、サファヴィー王朝期に彼らが赤いターバンを巻いていたことからそう呼ばれるようになった。

 アフガニスタンの他の民族には、ワジール族、マスードゥ族、ユソフザイ族、アフリディ族、モマンド族などがいる。民族は確かにアフガニスタン人のアイデンティティの一つの方法であるが、アフガニスタン人はまた共通の仕事を通じて得るのと同様に言語や宗教の伝統によって同胞としての一体感を抱くこともできる。

 歴史上、終始非常に多様で有力な帝国を繋いできたアフガニスタンの地理的位置から、アフガンという言葉は「間」を意味する古代チュルク語であると信じる歴史家もいる。もしそうであるならば、アフガンという名前はたくさんのメッセージを含んでいる。アフガン人は、一つのアイデンティティだけを持つことはできず、一人ひとりがアフガニスタンを作り上げている多くの文化の架け橋にならなければならないのである。