1747年以降のアフガニスタン国王

Ahmad Shah Durrani (1747-1772)
最後の名前Abdaliでも知られる、アフガニスタン最初の国王である。1747年に有力指導者たちの伝統的なコンセンサスとりまとめメカニズムであるLoya Jirgaにおいて、Durrani部族の最高首長に選出され、Dur-re Durran(真珠の中の真珠)の肩書を受けた。カリスマ的な指導者として、アフガニスタン国内の相対立する部族を統合して、18世紀後半に最大のムスリム帝国のひとつを作った。Durrani帝国は最盛期にはデリーから西イランにまで、そしてAmu Darya(Oxus川)からアラビア海の海岸まで版図を広げた。彼は又、戦士詩人でもあった。17772年10月23日に逝去、カンダハルの墓に葬られた。


Amir Dost Mohammad Khan (1826-1839 & 1843-1863)
Mohammadzai王朝の創始者であり、1826年から1839年と、1843年から1863年に、アフガニスタンを統治した。彼の最初の統治は第1次アングロ‐アフガン戦争により中断され、インドの英国植民地庁がDurrani王朝のSaddozai家の一員であったShah Shujaを、1839年から1842年まで2度目のアフガニスタン王位につけた。Amir Dost Mohammad Khan1843年にアフガニスタンの王座を奪回し、その後20年間統治を続けた。彼が統治した2度の期間は、王座の支配をめぐってアフガニスタンの国内と国外における陰謀で特徴づけられた。隣国の干渉と、国内の様々な部族政治勢力の反対が、彼の統治期間の特徴であった。Amir Dost Mohammad Khanは1863年にヘラートで逝去、遺体はそこに埋葬された。


Amir Sher Ali Khan (1863-1866 & 1868-1879)
Amir Dost Mohammad Khanの息子であり、1863年から1866年と、1868年から1879年に、アフガニスタンを統治した。アフガニスタンに最初の郵便制度を確立させたことで知られている。1879年にマザリシャリフで逝去、そこに埋葬された。1866年から1868年は、Sher Ali Khanの兄弟であるAmir Mohammad Afzal KhanとAmir Mohammad Azam Khanがアフガニスタンを統治した。


Amir Abdul Rahman Khan (1880-1901)
第2次アングロ‐アフガン戦争で英国部隊は2度目の敗北をこうむり、その結果1881年4月についに英国は撤退した。1880年にAmir Sher Ali Khanの従兄であるAbdul Rahman Khanが中央アジアへの亡命から帰国し、自分がAmir of Kabulであると宣言した。Amir Abdul Rahmanの統治期間中に、アフガニスタンの一部が大英帝国とロシア帝国により奪われ、その結果として現在のアフガニスタン国境が決められた。1885年5月にロシア帝国はOxus川の北の地域Panjdehを奪った。続いて1893年には大英帝国がDurand Lineをアフガニスタンに押し付けた。このラインは法と秩序を維持する責任範囲を英国領インドとアフガニスタン王国の間で分かつものであった。従って、アフガニスタンはヨーロッパの帝国政府により支配されることはなかったが、ロシア帝国と英国領インドの間の緩衝地帯となった。Amir Abdul Rahmanはその影響力を対外的に行使し、アフガニスタン国内の様々な民族言語グループに対し支配力を対内的に行使した。20回余りの小規模な戦争によって、彼らに強力な中央政府がカブールに存在することを知らしめた。彼は、多くの行政改革、技術改革を慎重に国中に導入し、近代国家の基礎を築いた。 Abdul Rahmanは長男であるHabibullah Khanを王位後継者に選んだ。


Amir Habibullah Khan (1901-1919)
Habibullah国王は近代化に魅惑され、カブール北部にJabalus-Saraj水力発電所を建設するにいたった。彼は近代的な工場や、自動車のための道路を含むインフラを建設するのを助けるために、多くの外国の技術者を招聘した。彼は又、カブールにゴルフをもたらした。19世紀は、競い合う帝国が常にアフガニスタンの国土を切り取ることに努めたため、アフガニスタンは世捨て人のような態度をとり続けた。しかし、新国王は伝統的な傾向の利益を調和させ、相争うアフガニスタンの隣国間の平和を維持するという、バランスを実現した。彼は又、第2次世界大戦に際し、アフガニスタンの中立を宣言した。1907年のサンペテルスブルグにおける英露協定により和解が成立した。この協定により、ロシアは「アフガニスタンがロシアの影響範囲外にある」ことを宣言し、英国は「アフガニスタンのいかなる部分も併合したり占領したりしない、そしてアフガニスタンの内政に干渉しない」ことを約束した。


King Amanullah Khan (1919-1929)
King Amanullah Khanはアフガニスタンに新時代を開いた。第一に、彼は外交に関する独立を要求して英国に宣戦を布告した。第二に、彼はヨーロッパへの長旅に出かけた。もっと重要なこととしては、彼は教育、行政、科学そして技術や通信分野の近代化を目指して革命的な改革を導入した。壮大な政府の建物、宮殿、別荘、凱旋門、リゾートタウン、そしてカフェなどがカブール、ダルラマン、パグマンのあちこちに建てられた。彼は伝統的な衣服を禁止してヨーロッパ風のドレスコードを採用する布告を公布した。残念ながら、彼は時代の先を行き過ぎており、伝統的な勢力や宗教的なグループが彼の近代化の速度を妨げた。1929年初めに、流血を避けるために彼は権力を放棄せざるを得なくなった。Bach-e-Saqowとして知られるHabibullahが1929年1月にカブールを接収し、Nadir Shah将軍が権力を奪回するまで、混沌とした9ヶ月間の支配を行った。


King Nadir Shah (1929-1933)
独立戦争の英雄Nadir将軍は南部から部隊を結集してBach-e-Saqowを倒し、まもなく1931年に新しい憲法を制定した。彼は強力な中央集権を取り入れ、法と秩序を回復し、陸軍を再編し、学校を再建し、病院を建て、新しいダムを建設し、南部と北部を道路で結び、大英帝国とロシア帝国の間のバランスオブパワーを維持した。しかし、多くのアフガニスタン人はアフガニスタンを再び緩衝国家にすることに反対した。その結果、国王は1933年11月8日に若い活動家学生により殺害された。


King Mohammad Zahir Shah (1933-1973)
Mohammad Zahir Shahはわずか19歳で父親の後を継いだ。在位中にアフガニスタンの改革はバランスのとれた速度で進められた。アフガニスタンは諸国間の尊敬を得て、1934年には国際連盟に加盟した。第2次世界大戦の勃発に際し、国王は中立を宣言した。アフガニスタンは1946年に国際連合の加盟国にもなった。1959年に、自由意思によりヴェールをやめることが法律上の選択肢となった。1964年に立憲君主制が承認され、議会の13パーセントは女性だった。小さな企業からテレコミュニケーション、そして水力発電所までアフガニスタン近代化のための数多くの計画が進められた。主要な幹線道路が建設され、カブール空港を通じてアフガニスタンは世界の様々な首都と結ばれた。しかしながら、冷戦が始まった中、二極世界における勢力間の争いとソビエト連邦に近接していることが、アフガニスタンにとっては損害を与えることにしかならなかった。1973年7月17日、国王がヨーロッパ訪問中に、元首相でもっと改革のスピードを上げることを主張していた、彼の従兄であるSadar Mohammad Daoudが親ソビエトの軍部の助けを得て、君主制を廃止、共和国を創立した。このことが共産主義者に5年後のクーデターを計画し赤軍を招いてアフガニスタンを侵略する機会を与えることとなった。2001年後半にタリバンが崩壊し、ボン合意が成功した後、国王は2002年の春に招かれてアフガニスタンに帰国し、「国家の父」の称号を与えられた。彼は現在大統領宮殿に居住している。