Kabul カーブル

カーブルは、 1776 年に首都となって以来急速に発展してきた都市である。

賑やかなマーケットに接して高い近代的な数々の建物が並ぶ。大通りには流れるように垂れている色とりどりのターバン、カラフルな縞模様のチャパン(羽織物、アフガニスタンの民族衣装)にハンサムな面々 …. いろいろな顔で埋めつくされている。

カーブルは、春には淡く光るエメラルルドグリーンに、冬はきらきらと輝く白い山々に囲まれる。夏の山々は、太陽が昇ると深い紫色になり、日が沈む時には光輝きピンク色へと変化してゆく光線が美しい。山頂に古代の要塞がそびえる岩だらけの山々が、この都市を二つに分かつ。カーブル川が山間部の狭い水路を通って、曲がりくねりながら市の中心部を流れている。何世紀にもわたって旅人達は、情熱をこめてカーブルを記述してきた。カーブルは、現代も訪問者を魅了し続けている。

カーブルの名所:

バラ・ヒサール:

平原にそびえ立つ城(6世紀頃のもの)は、数世紀にわたってこの地の支配者の居城として、その役割を果たしてきた。この城は、第二次アングロ・アフガン戦争の間に破壊されたが、 1880 年まで国の歴史に残る数々の出来事が起こった場所でもあった。

アレグ(宮殿):

アミール・アブドゥル・ラーマン( 1880-1901 )によって、破壊されたバラ・ヒサール宮殿に代わり建てられた。宮殿の中には、サラム・ハーナ宮とディル・クシャ宮などがある。現在は大統領府として、また前君主であるモハマド・ザヒル・シャーの住居として使用されている。 

カーブルの旧壁:

この古い城壁はバラ・ヒサールから続く。壁の高さは 7 m、厚みは 3 mで、おおよそ 5 世紀頃の荒れていた時代のものである。

霊廟群

カンダハールからカーブルに首都を移したのはアハマド・シャー・ドゥラーニの息子ティムール・シャーである。 1817 年にティムール・シャーの墳墓が造られた。
市の目印ともなる美しい建物はアフガニスタンの最も強力な支配者であるアミール・アブドゥル・ラーマンの聖廟である。この霊廟は、19世紀の特徴的な建築術を残す素晴らしい建造物でザルネガル公園の中央に建っている。
ナディル・シャーの聖廟は、タパ・マランジャンとして知られる丘の上に建っている。堂々たる白大理石で造られた青い丸屋根を持つモスレムが、カーブルを見おろす。

バーゲ バーラ:

多くのドーム型屋根を持つ優雅な宮殿でカーブル北部の丘の上に輝いている。松の木に囲まれたこの宮殿は夏季の別荘として建てられ、大きなスイミングプールもある。現在、海外から訪れる来賓のゲストハウスとして外務省施設に一新されている。

バブール庭園:

16 世紀中頃のムガール朝の創設者バブールによって設計され、アミール・アブドゥル・ラーマンによって建てられた。夏の日除け付きテラスがある。シャー・ジャハン帝がバルフ陥落の記念モスクを建立した。また、バブール自身の墓もある。バブールは、 1530 年にアグラで死去したが、この庭園を大変気に入っており、ここに埋葬されることを望んでいた。彼の願いはアフガン人の妻ビビ・モバラカによって叶えられた。

国立博物館:

ダルラマンに設立された国立博物館にはアフガニスタンの先史時代から現代までの歴史を
物語る素晴らしい芸術品の数々が収集されている。

バザール :

カーブルにあるカラフルで賑やかな多くの市場は、買い物や観光に訪れる人々を魅了する。コチ・ムルガ(チキンストリート ) は最も有名でにぎやかな通りである。

モスク :

カーブルには数多くの趣のあるモスクがある。

市内にある最も有名なモスク:

プレ・ヘシティモスク  Masjide Pule Khesti

シャーヘ・ドゥ・シャムシェーラモスク  Masjide Shahe Du Shamshira

シェール・プールモスク(ブルーモスク)  Masjide Shepur (Blue Mosque)

イード・ガーモスク  Masjide Id Gah

サイエド・マジヌン・ジャーモスク  Masjide Sayed Majnun Shah

カーブル周辺

イスタリフ:

イスタリフ はコーダマン地方、カーブルの北に位置する不毛の丘に囲まれた谷間である。
この中には緑の果樹園に囲まれた村々が点在する。イスタリフは昔からある大きいな村の一つで、ここからの眺めは大変すばらしい。イスタリフは緑と青の陶磁器で有名であり、絵に描かれたような市場でもある。この地を訪れると、美しい風景と融合したアフガニスタンの村人の生活を垣間見ることができる。
シャモリ平原にあるこの地域は 100 種類にのぼるブドウの産地で知られている。

カーブル渓谷:

アフガニスタンは山々の印象的な景色を持つ国で、中でもカーブル渓谷は最も壮観な眺めの見られる場所である。大きな一軒のピケットハウスが峡谷の頂上にある。ここを訪れると幻想的な眺めを満喫することができる。山峡の麓までの 3km の道をスイッチバックし、でこぼこ道を体験するのも楽しい。

グルダラ ストゥーパ(仏塔):

歴史上、見逃せないこの 4 世紀の遺跡はコリントスの円柱も持つ正方形の台上に建っている;かつては、壁がんには彫像が置かれていた。その壁には、クシャン朝の見事な職人技である幾何学模様が見られる。ストゥーパはもともと漆喰が塗られ赤色の図画に黄褐色で絵が描かれていた。

パグマン:

パグマンはカーブルで最も人気のある夏の行楽地である。中央の広場に建つ堂々たる勝利のアーチは 1919 年にアマヌラ王によって、独立戦争の記念として建築された。多くの喫茶店や軽食店が立ち並ぶ道は、バーゲ・ウムミ ( 公立公園 ) まで続いている。カーブルへの帰路にはスプザマイ ( 月の光 ) レストランがあるカルガ湖や 1900 年代初頭にアミール・ハビブラ・ハーンよって開設されたカーブルゴルフ場もある。

GHAZNI ガズニ

刺繍つきの羊皮で作られたコートの評判が高い重要な商業都市、ガズニは 994 年から 1150 年までガズナ王朝の威容を誇る首都であった。この大帝国の大部分はインドの北部、ペルシャおよび中央アジアにまで広がっていた。インドへの度重なる出征はこの地から行われた。その結果、イスラム教が東アジアに広がっていった可能性もある。この名誉ある都市は、アラブからの侵略者によって 869 年に占領された。 1151 年にゴール朝のアラ・ウッディーンによって崩壊された。その後再建したが、 1221 年にチンギス・ハーンによって破壊されたことで有名になった。この街は、以前のような華麗さを取り戻すことはなかったが、この地域の経済戦略上、重要な位置を占めている。

ガズニの名所:

要塞:

アフガニスタンで見逃せない最も素晴らしい要塞の一つである。第一次アングロ・アフガン戦争で破壊された後、再建されたものであるが、決してかつての華麗さを失っていない。

スルタン マスウド3世の宮殿:

ガズナ朝時代の大邸宅の中心部には国王の玉座、執務室、兵士の宿舎、寺院と尖塔を備えたモスクなどがあり、それらは王宮と中庭に付随している巨大な複合建築物である。

2つの尖塔:

スルタン・マスード( 1099-1114 )とバハラム・シャー (1118-1152 )によって建てられた有名な記念塔。現在、これらの塔は原形を留めていないが、壮観なジャムのミナレット (1194 年建立 ) のモデルとなり、その後、デリーのクトゥブ・ミナールの手本とされた。その複雑な装飾は、花柄と幾何学模様のパネルに、正方形のクーフィー体とナスヒー体で刻まれたスクリプトである。スルタン・マスードの塔の装飾は、より精巧なものである。

その他の遺跡:

他の注目すべき場所にはスルタン・マームッド霊廟、イスラム博物館、タパ・サルダール・ストゥーパ、ファテ・ハーン・バラザキの墓などがある。

Kandarhar カンダハール

近代アフガニスタン誕生の地であり、アフガニスタンの最初の首都であるカンダハールは 1747 年にアハマド・シャー・ドゥラーニによって基盤を築かれた。アジアハイウェイのカーブルとヘラートの中間に位置しており、今日では 100 万人弱の居住者がいる。この地域は古代史の遺産の宝庫である。かつて、アレキサンドロス大王はここに、自分の名をつけた町アレキサンドリア・アラコシアを築いた。そしてその後もサファビー朝やモンゴル帝国などに繰り返し侵略され支配されてきた。カンダハールに住むアフガニスタン人にとって本当の意味での独立は、アフガニスタン土着のギルザイ族の族長ミールワイス・ホタクの指揮に始まり、アハマド・シャー・ドゥラーニによって勝ち取られた。アハマド・シャー・ドゥラーニは両帝国の衰退を促し、周辺の領土を併合し、 18 世紀における若いアフガニスタン王国の誕生に力を尽くした。

カンダハールの名所:

ヘルケ・シャリーフ:

預言者モハンマドの着用していたとされるマントが安置されているこの神殿はアフガニスタンで最も神聖な寺院である。この古代の貴重な遺物はアハマド・シャー・ドゥラーニによってカンダハールに遺された。

チェヘル・ジーナ:

この人目を引く建物の中には 40 段の階段があり、その奥には岩を削って作られた部屋がある。部屋の中には、モンゴル帝国の設立者であるバーバーによって建設されたと記された碑文があり、その碑文には当時の帝国の征服の様子も描かれている。

その他の遺跡:

ゾール・シャー ( 旧市街)、 ハズラットジ・バーバーの聖堂、ハズラットジ・バーバー・ワリーの聖堂、チャハル・スーク。アハマド・シャー・ドゥラーニとミール・ワイスの霊廟。

ラシュカルガーからボストへ

ラシュカルガーはヘルマンド州の首都である。ヘルマンド・アルガンダブ流域開発庁が周りを囲む。この地は、数世紀前に征服者らによって不毛の地と化してしまったが、緑豊かで肥よくな地へ開拓しようと様々な事業が進められてきた。

古代ボストは現代の行政の中心地の南方に位置している。 ボストの地名は、ゾロアスター教の聖典アヴェスタに由来する。この地名は、アケメネス朝時代の町のリストなどにも出てくるというが、それらの記述は曖昧ではっきりしたことはわかっていない。明らかなのは、この地域にあった城が、西暦 661 年頃アラブの侵入者によって占領されたことである。

9 世紀には、ボストは、西南地方で第二の都市に成長した。 11 世紀の中頃、あるアラブの旅行者は「ボストはセジスタン地方における主要な都市の一つで、ザランジを除いてこれをしのぐ大きな町はない。ここの住民は、礼儀正しく、寛大である。また豊かな町であり、果物、なつめやしの実なども十分に供給されている。」と記述している。 11 世紀から 12 世紀の中頃まで、ガズナ朝時代の冬の首都として繁栄したが、 1151 年にゴール朝によって、焼かれ、略奪された。その後、 1220 年にチンギス・ハーンによって完全に破壊された。今日遺されている巨大なマスード宮殿は、依然として当時の宮廷の繁栄や華麗さを訪れる者に想像させる。最も目を引くモニュメントは全長 80 フィートの華麗に装飾されたアーチである。

Herart ヘラート

ヘラートの 歴史は破壊と復興の繰り返しである。アレキサンドロス大王の時代から征服者による侵略に続く侵略により、破壊され、そして再建を繰り返してきた。紀元前 4 世紀、アレキサンドロス大王が築いた要塞が、今日も市の中央にそびえ立っている。 1040 年から 1175 年にこの市はガズナ朝を打ち破るとともに城郭を破壊したセルジューク朝によって支配された。その後ヘラートはホラズム皇帝の統治下となるまでゴール朝に支配された。 1221 年、ヘラートは蒙古人とチンギス・ハーンの息子トゥルイに占領され、一時、彼の支配下にあった。しかし市民が反乱を起こし、蒙古軍駐屯兵の隊長を殺害すると、怒りは極度に達し、チンギス・ハーンは巨大な兵を率いて 6 カ月間にわたりヘラートを包囲した。徹底的な攻撃を受け、市は廃墟と化し、これによりわずか 40 名が生きて逃れたという。 1245 年、ヘラートの支配はクルト族のマリク(王)らに委ねられた。ティムールは 1381 年にヘラートを破壊したが、彼の息子であるシャー・ルフがこの地を再建に尽くし、文化の復興に着手した結果、学問と文化の中心地となった。ティムール朝の支配下にあった時代、ヘラートには、偉大な詩人ジャミと細密画家ビフザードが誕生し、シャー・ルフの妻の依頼によってガーハル・シャード・ ムサッラー (礼拝所)建てられ、ガザルガー(廟)は、修復された。この時代( 15 世紀)はヘラートの繁栄の時代であった。 1718 年、カンダハールを支配下に置いたギルザイ族の長ミール・ワイスが、周辺地域に領土を拡大し、アフガン諸族はミール・ワイスの主権を認めたが、ヘラートでは承認されなかった。カンダハールの独立奔走は 1880 年までの間続き、そしてついにヘラートはアフガニスタン人の手によりアフガニスタンの重要な一地域となった。

ヘラートの名所:

城砦:

この砦は元来、アレキサンドロス大王によって建設されたものである。歴史上、繰り返し攻撃を受けてきたが、依然としてヘラートの眺望の大部分を占めている。ガズナ朝、セルジューク朝、ゴール朝、モンゴル朝、ティムール朝、サファビー朝などの様々な王や支配者に治められてきた城は、征服者らと多数の虚飾を思い出させる。

マスジット・ジャミ(金曜モスク):

街の中心に位置するこの偉大な美しいモスクは、ゾロアスター教が信仰されていた時代から礼拝の場所であった。 数回の再建の末、今も尚、趣きのある壮麗な姿でヘラートの町に聳え立っている。

ガザルガー:

11 世紀の有名な詩人であり、哲学者でもあるホーワジャ・アブドゥラ・アンサリの寺院。彼の墓廟は、 1428 年にシャー・ルフにより修復された。中庭にはアミール・ドゥスト・モハマド・ハーンの墓もある。

ガーハル・シャードの霊廟 :

この霊廟は、ティムール帝の最も若い息子、シャー・ルフの妻であるガーハル・シャードの為に建設された。鮮やかな色彩で彩られたドーム型の屋根は、ティムール朝時代、大変好まれた建築様式であった。

ジャミの墓:

15 世紀の著名な詩人、マウラーナー・ヌールディン・アブドール・ラフマン・ジャミ は、 1414 年に生まれ、 1492 年にヘラートでその生涯を閉じた。生前の広い名声を得た彼は、文芸の最盛期の巨匠である。ピスタチオの木の繁みに隠れた簡素な墓である。

ミナレット(尖塔):

シャード王妃の監督の下、 1400 年代の後半に建設されたモスク ( 礼拝所 ) には、元々 12 あったミナレットの内、今日では 6 つが残されている。この建築物は、芸術文化の最盛期にティムール朝の王女ガーハル・シャード(シャー・ルフの妻)の貢献によるものである。マドラサと呼ばれる神学校や、ムッサラーと呼ばれる礼拝所からなっている。ミナレットが側面に並ぶこれらの華麗な建物は、かつて、アジア全土で見られる最も壮大で優雅な築物と評された。

チャハル・スーク :
ヘラートのバザールは、色彩に富み、とても魅惑的な場ある。かつては、ヨーロッパから中国へと向かうキャラバンの重要な交易の中心地として栄えた。今日では、手織のヘラート絨毯や伝統的な町のガラス吹き工によって作られた青く美しいガラス製品が、訪れる者の目を引くようだ。

バルフへの道

バルフへの道は世界で一番高い位置にあるサラン峠( 3363 m)を経由してヒンドゥクシュ山脈を越える。この道中には、スリルに満ちた壮大な景色が見られる。

カーブルからおよそ 240km (プリホムリから 12km )のところにはスルク・コタル(赤い峠)がある。クシャン朝の王カニシカによって西暦 130 年頃に建てられた素晴らしい宗教的な寺院である。これはアフガニスタンの最も重要な考古学上の遺跡の一つあるが、遊牧者の敵でありクシャン朝にとって代わる最後の後継者、エフタルによって焼かれてしまった。

そしてそこから北へ 70km 行くとサマンガン州の首都 、アイバクがある。さらに 2km ほどの所にはタクティ・ロスタム(ロスタムの王)として知られる大変興味深い仏教ストゥーパがある。その起源は紀元前 4 世紀まで遡るという。タクティ・ロスタムとは、フェルドーシの偉大な叙事詩『シャーナーメ( 1010 頃、ガズニ 朝時代に書かれた王書)』の中に出てくる素晴らしい英雄である。王の美しい娘、タハマと結婚した。このストゥーパは、西暦 460 年頃エフタルによって破壊されたと思われる僧院の向かいの丘に建てられている。さらに 60km 北には、中央アジアの伝統的なバザールが残る、タシクルガン(ホルム)がある。バザールをぶらぶらと散策するのは特別楽しいだろう。この地には、バラ・ヒサール(城跡)や アミール・アブドゥル・ラフマン・ハーンの宮殿 ( バゲ・ジャハン・ヌマ ) 、 1786 年から 1817 年頃のホルムの注目すべき支配者であったキリク・アリ・ベクの墳墓がある。

Mazar-e-Sharif マザリシャリフ

バルフ州の州都であるマザリシャリフは、カラクル(腹仔羊の毛皮)や様々な種類のトルクマンカーペットや高品質な織物で有名な商業都市である。この都市は、預言者モハンマドのいとこで義理の息子でもあるハザラット・アリ、すなわち第四代の カリフにちなんで名付けられた。ハザラット・アリは 661 年に暗殺され、バグダットの付近のクーファに埋葬された。しかしながら、その地方の伝説によると、彼の家臣達は敵対する者らによって、彼の亡骸を奪われることを恐れ、人知れぬ場所にそっと埋めようと、白い雌のラクダの背に亡骸を乗せたと言う。そしてラクダは疲れて倒れるまで歩き回り、ラクダが倒れこんだ、その場で死体は埋葬されたと言われている。永眠地は、長い間、明らかにされなかった。その後、 1136 年にセルジューク・トルコのスルタンであるサンジャールによってこの地に廟が建てられた。しかし、チンギス・ハーンによりこの建物は破壊され、再びハザラット・アリの廟の在り処は闇に包まれた。チィムールのスルタン・フサイン・バイカラの統治下の天啓に導かれるまでこの墓は人目につくことはなかった。 1481 年フサイン・バイカラは、カリフ、ハザラット・アリの冥福を祈り壮大な寺院を造ることを命じた。1 5 世紀の頃に施された装飾は、現在の廟には何一つ残っていないが、復元された建物は、元来の建築の美しさを再現している。無数の白い鳩がそこを住処としていることにも哀愁がある。アミール・シェール・アリ・ハーンは、アミール・ドウスト・モハマドの家族らとともにここに埋葬されたという。寺院の表、西側の礼拝堂の中にある墓の中で最も大きなものは、アミールの有名な子息の一人で、 1838 から 1842 にかけての第一時アングロ・アフガン戦争中に顕著な任務を果たしたモハマド・アクバル・ハーンのものである。

マザリシャリフには一年を通じ、数え切れない程の巡礼者が訪れる。特に、新年の到来と春の訪れを告げるナウローズ( 3 月 21 日)の頃には、ジャンダ(聖旗)が揚げられ、アフガニスタンにおける最も華やかな祭りを楽しもうと訪れる人が多い。

Balkh バルフ

今や小規模の町であるが、この町の輝かしい歴史は非常に有名である。紀元前 6 世紀頃、ゾロアスター教がこの地で説かれた。寺院における儀式は、オクサスの女神アナヒータをたたえたもので、紀元前 5 世紀までの間、多くの人々に信仰されてきた。また、 アレキサンドロス大王 紀元前 4 世紀頃、この地を本拠地とした。その後、クシャン朝のもとで、仏教が全盛をきわめ、アフガニスタン中に広がり、多くの神聖なイスラム寺院がバルフに建立された。アラビア人はバルフを「母なる地」“ Balkh Umm-ul Bilad ”と呼んだ。

サーマン朝の統治下で 9 世紀までには、およそ 40 もの金曜モスクが市内に建てられた。

バルフの名所:

サイード・スーバン・クリハーンのマドラサ

城壁のある古代都市の廃墟

ホワジャ・アブ・ナスル・パルサの寺院とモスク

ラビア・バルヒの墓

マスジィディ ノ グムバード( 9 つのドーム型屋根をもつイスラム寺院)

この巧妙に装飾を施されたイスラム寺院は、ハジ・ピヤタとも呼ばれる。アフガニスタンで他にこのような建物は見つかっていないことから、この寺院は、最初のイスラム建築物だと思われる。

バルフは、最も顕著なスーフィーの詩人であるマウラーナー・ジャラルディン・バルヒ(ルミ)とイスラム時代の最初の女性詩人ラビア・バルヒの故郷である。彼の「マスナウィ」は初期のペルシャ文学の偉大な詩集として評価されている。 バルフの華々しい歴史は、騎馬民族の男チンギス・ハーンが軍を引き連れやって来て、この地を徹底的に荒廃させた 1220 年代に終わりを遂げた。それにもかかわらず、この市はヘラートの王シャー・ルフと王妃ガーハル・シャードの賢明な統治のもとで再生し、通商上の重要なルートとして存在している。

JALALABAD-HADDA ジャララバード

カーブルの東 150km に位置する。カーブルからは、カーブル渓谷、ナグロ、ソロビー、そしてダルンタ湖を通じ、そしてジャララバードへと入る。ナンガハール州の州都で、山に囲まれたオアシス都市である。宮殿、大きな庭園、並木通りは冬の美しい都の長い歴史を物語っている。今日、多くの小さな別荘が建ち並び、保養地として人気があることを示している。

この地で行われる沢山の祭礼の中で、特に有名なものは、ムシャヘラや詩人の祭りで、ジャララバードのオレンジの満開の花に捧げられるものとワイサークというヒンズー教徒の宗教的祭礼である。

アミール・ハビブラーとアマヌラ王の邸宅であるセラジ・ウマヤートは、 1929 年に破壊された。しかし庭園は過去の美しかった痕跡を今も留めており、午後には楽しい散歩の時間を提供してくれる。二人の霊廟はセラジ・ウマヤートに面する庭に囲まれている。
ジャララバードはヌーリスタンやカイバル峠へ向かう合流点にあり、旅人が途中で立ち寄るには打って付けの場所である。

Hadda ハッダ

ジャララバードの南、 11km にハッダ村がある。 2 世紀の終わりから 7 世紀にかけてこの地は仏教世界の中でも最も神聖な場所であった。世界各地から数え切れない巡礼者が参拝に訪れた。大きな僧院に住む何千もの僧侶や聖職者が住んでいた。仏陀も存命中、ハッダ村を訪れたという。考古学上重要な遺跡が今も発掘されており、多くは公開された博物館となっている。

NURISTAN ヌーリスタン

ラグマン地方とナンガルハール地方に属すヌーリスタンは、およそ 10 万のヌーリスタン人が居住している。 5000 スクエアマイル程の地域で、 5 つの大きな谷といくつもの小さな谷に囲まれている。それぞれの谷には異なる言語を話す別々の部族に分かれて住んでいる。各々の言語は違いが大きく、多くの場合、互いに理解することは難しい。また、言語はダルディック語に分類され、インド・ヨーロッパ系の言語である。スーリスタンと彼らの周辺で生活している住人の間には体つきや習慣など多くの相違がある。
例えば、ヌーリスタン人は敷物よりもスツールを好むという事も明白な習慣の違いである。また、音楽にも大きな違いが見られ、彼らの使う楽器の中でもハープには、際立った違いがある。アレキサンドロス大王は、インドへの遠征の途中、彼の軍にヌーリスタンの若者を招いた。若者達は、持ち前の戦闘技能を振るい彼らの力を立証した。ヌーリスタン文化の中に見られる多くの人に「ギリシャ風」と言われるモチーフや習慣は、おそらくこの経験から来るものであろう。

その後何世紀にも渡って、この山に住む人々は、仏教やヒンズー教信仰からイスラム教へと置き換えられていった時でさえも、征服や改宗への抵抗を貫いた。イスラム教徒は、これらの人々をカフィールと呼んで区別した。なぜなら、彼らは広く自然の魂が宿る神殿を礼拝しており、イスラム教とは相対するものであったから。

1895 年、アミール・アブドゥル・ラーマンの軍隊が、ついにカフィールを征服し、彼らをイスラム教に改宗させた。勝利に満ちた彼の軍隊がカーブルに到着した時、アミールは今後、カフィリスタン(異教徒の土地)は、ヌーリスタン(光の地)として知られるであろうと告げた。

ヌーリスタンの大部分の地は、全ての者にとって近づき難く、荒野の小道を徒歩で行くことも大変困難である。歩幅 30 フィートくらいの橋があるが、泡立って水が逆巻く川は、馬でも簡単に交わすことができない。

恐らくヌーリスタンへの旅 で最も劇的な危険極まりない出来事は偉大なティムール帝によって語られている。この小さな異教の地を征服することは世界中の侵略者達にとって無謀であろう。

征服者はこの地域で災難に遭い、その苦難から速やかに征服することを諦めた。ティムール帝は篭の中で絶壁を下った時、自分の落ちぶれた様を感じた。しかも同様の方法で彼の馬を下ろさなければならず、彼にとっては心の痛むことであった。二人を除く全て人が岩を避け死から免れた。ティムール帝は 、荒涼たるカフィリスタンから、無事脱出できた感謝の祈りをこめて、ヌーリスタン出征の叙述を終えている。

ヌーリスタンの多くの村は高い山頂の先端にあり、家々は山腹に溢れそうな程あり、上にある家の屋根は、下の家の正面玄関になり、屋根の上は遊び場として役立っている。子供達は、屋根の上で激しいゲームをする。高いところに不安定な状態でぶら下がるのだ。これを見て彼らの両親はもっと深く腰掛けなさいと言う。

Bamiyan バーミヤン

古代遺跡バーミヤンは、アフガニスタンの最も顕著な観光遺跡である。村は、海抜約 2500m カーブルの西、 240km の位置にある。そして毎年何千もの観光客を魅了している。この谷の絶妙な美しさは、南を雪に覆われたコーヒ・ババの山々に囲まれ、北には優れた偉業の大きな大仏像がある険しい崖に囲まれている。パステルカラーの優雅な谷は、訪れる者に偉大な自然の長閑さを与え人々は深い感銘を受けるのだ。

バーミヤンは、カニシカ王の時代、商業都市として、また宗教の中心地として開発された。小さな仏陀の彫像(高さ 38m )がこの時代に建てられ、その 2 世紀後に、大きな仏陀の彫像(高さ 55m )が彫られた。いくつもの装飾された洞窟は、黄色い僧衣をまとった僧侶で占められ、フォラディ、そして小さな釈迦の立像(高さ 6.5m )が立っているカクラクの谷まで広がっている。仏教国から巡礼者の全てが、壮観で神聖な遺跡を賞賛するためにバーミヤンに続々やってくる。バーミヤンは 9 世紀にイスラムの征服者に屈した。

SHARE GHOLGHOLA シャハリー・ゴルゴラ:

バーミヤンは 122 1年にチンギス・ハーンによって、孫ムテゥゲンの死に対する復讐のため破壊された。この砦は「嘆きの町」とも呼ばれる。依然として蒙古人の略奪以前の壮大さを残している。

SHRE ZOHAK  シャーリ ゾハーク:

このたくさんの廃墟は、 12 世紀から 13 世紀のシャンサバニ王家の頃は、バーミヤン市に入ることを防ぐ、重要な砦であった。戦乱の中命を落としたチンギス・ハーンの孫に対する復讐として惨事が起こった。

AJAR VALLEY  アジャルの谷:

美しい植物が生い茂る緑のこの谷は、絶えず色彩を変える薄暗い山々に囲まれている。きらきらと光る透き通った小川に鱒の群れが溢れ、思わず息をのむような深い溝に引き込まれそうになる。その光景はここを訪れるすべての人にとって忘れられないものである。

BANDE AMIR バンディ・アミール

アフガニスタンを訪れるものはこの国の美しい自然に驚嘆する。壮大なヒンドゥクシュの山々、広大なトルキスタン平原、ひっそりとした荒涼の地は、アレキサンドロス王からマルコポーロなど旅人たちに感銘を与えてきた。手づかずの自然の美しさはいつまでも人々に忘れがたい強烈な印象を残す。そういったアフガニスタンのすべての自然の驚異の中でも、バンディ・アミールの湖は、最も素晴らしい光景である。バーミヤンの西方約 75km 、標高よそ 3000m のハザラジャートの山々に囲まれている威厳ある青色の5つ湖は、伝説的な美しさである。

MINARET OF JAM ジャムのミナレット  ( 中央ルート )

セントラルルートでカーブルからヘラートへ向かう人々は皆、信じ難い魅惑的な経験をするだろう。しかしこれは、冒険心を持つ旅人かあるいは探検家におすすめのルートである。道を行くと最初に目に留まるのは、バーミヤンとバンディ・アミールで、この道はパンジャウを経由してゴール州の首都、チャクチャランへと続く。そしてこの道は、シャラクを経由して北に向かって進むと、さびしい、人里離れた谷にあり、荒れた山脈にまわりを囲まれて、ジャムのミナレット(イスラム寺院の尖塔)が聳え立っている。高さは 65m あり、ハリ・ルド川の南の堤防に位置している。インドを征服した後、クトゥブ・ディンによってデリーに建てられた、クトゥブ・ミナールはこれよりもより高い。これはゴール朝の時代の建築様式による記念建築物で、最も良く保存されている。ヘラートへの道、ゴール朝の霊廟チェステ・シャリフとオーベイの暖かい鉱泉に立ち寄ると良い。