ヘラートの歴史  the City of Herat

 アフガニスタンの北西部に位置する、ハリ・ルド川沿いの町で、ヘラート県の首都。

 かつては中央アジアとインドを結ぶ要衝の地として栄えた。

 ヘラートの歴史は、破壊と復興の繰り返しであった。古代はアレキサンダー大王の時代から、時の支配者たちに幾度となく征服され、破壊し、そのたび再建してきた。

 1040 年にはセルジューク朝が広大な地域を支配していたガズナ朝を破り、ヘラートに侵略した。 1040 年から 1175 年の間、ヘラートはセルジューク朝に支配され、その後、ゴール朝に統治される。スルタン ギャースディーンゴーリーの支配下でゴール朝は最盛期を迎え、その勢力を振るった。ギャースディーンが死去すると、ゴール朝は急速に衰え、ヘラートはホラズム皇帝に統治されることとなる。しかし、やがてヘラートはチンギスカーンの遠征などにより荒廃し、冒険家たちの手に残されるのみとなったのである。

 1221 年、ヘラートはモンゴル軍に攻撃され、要塞に留まっていた 1 万 2 千人の兵士は殺害された。チンギスカーンの息子チャリが一時支配していたが、市民は反乱を起こし、モンゴルの守備隊を殺害した。チンギスカーンが 8 万人の兵を連れ、 6 カ月もこの地を包囲したことに対し市民の怒りを買ったのだ。この反乱で生き残ったのはわずか 40 人のみであった。 1245 年、彼らは土地を分割し、ヘラートはイラン系のカールト家の手に渡った。 1332 年、彼はカーン族から独立を勝ち取ったのである。

 1381 年、ティムール朝がカールト族からヘラートを奪い、市の財宝を略奪し、壁を破壊した。市民は暴動を起こし、ティムールはヘラートを破壊した。

 ティムールの死後、息子のシャー ルフが、ヘラートを再建し、美術家、建築家、詩人哲学者を集め、芸術と学問の中心地とすべく文化的な復興を図った。有名な詩人ジャ ミが生まれ、ガワハール シャド女王のモ サーラ マドラサ が建てられた。細密画家のベフサードが生まれ、ガーザガー は再び返還された。こうしてヘラートはシャー ルフ、スルタン・フサインの時に繁栄の時を迎えた。

 フサインの死後の 1507 年にヘラートはウズベクのシャイバーン カーンに占領され、ティムール家の時代は終わりを告げた。その後、ウズベクやペルシャのサファヴィー朝がヘラートを巡って紛争を起こし、 1634 年にハッサン カーン シャムルがサフャヴィー朝の下、ヘラート地方の統治者となった。そして彼の治世の後、ヘラートは衰退を始める。

 1718 年、アフガニスタンのホタキ族がヘラートの独立を求めて立ち上がる。 1718 年から 1880 年までの間、ヘラート地方全体がアフガニスタンの一部として統合されるまで、ヘラートを巡る争いは続いた。

ヘラートの観光

マスジィデ・ジャミ  Masjed-i-Jami

 市の中央に位置するこの素晴らしく偉大なモスクは、ゾロアスターの時代から人々の崇拝に訪れる場所であった。何度も再建され、ほぼ完全に近い修復作業を経て、現在は素晴らしい輝きを放っている。旅行者はぜひ訪れるべき。

詩人 ジャミの墓  Jami’s Tomb

 ムラ ヌールデン アブドラフマン ジャミ( Mulla Nuruddin Abdurrahman-i-Jami )は 15 世紀の最も偉大な詩人である。墓の上に覆い被さるように繁るピスタチオの木以外には何もない質素な墓地に埋葬されている。 1414 年に生まれ、 1492 年にヘラートで亡くなるまでの間、彼の名は広く知れ渡り、多くの権力者によって宮廷に誘われ、数多くの作品を残した。彼の墓は、市の郊外、イランとの国境イスラム カラー( Islam Qala )への道の途中にある。

ヘラートの風車  Herat Windmills

 この地域で見られる風車は 7 世紀から存在した。これら中東の風車は、ヨーロッパや中国の風車に影響を及ぼしたと言われている。ジャミの墓の隣にある。

ガーザ ガー  Gazer Gah

 11 世紀の有名なスーフィーの詩人であり、神秘の哲学者でもあったホージャ アブドラ アンサーリ( Khaja Abdullah Ansari )の寺は、参拝者の訪れる地であり、かつアンサーリ( Ansari )の兄弟の家でもある。ティムール朝の末息子シャー ルクによって 1428 年に再建されたが、多くの修復跡が現在も明白に見受けられる。ヘラート北部の丘の上にあり、観光地として見逃せない場所の一つである。

ガワハール シャドの霊廟  Gawhar Shad’s Mausoleum

 この霊廟はシャー ルクの妻、ガワハール シャド( Gawhar shad )のために建てられたもので、ベブザード公園( Park-i-Bihzad )の角に位置している。ティムール時代の特徴に見られる、明るい色とアーチ状のドームが特徴である。霊廟の天井を彩る華麗な装飾は、美術や建築の愛好家にとっても大変興味深いものであろう。

ミナレット The Minarets

 現在、 1400 年代のはじめに建てられた 12 のミナレットのうち、ガワハール シャド( Gashar Shad )女王の ムサーラ( Musalla )である 6 つが残っている。もともとミナレットはガラスを加工したタイルのモザイクで装飾されていた。

 これは、ティムール帝が文化と学問を奨励していた時代に女王により建てられたものである。時の一流建築家が彼女のために、マドラサ ( 学問をする場所 ) とムサーラ(礼拝をする場所 ) を設計した。これらの建物は、バイロンによって「アジア全域で見られるイスラムの建築物の中でも最も輝かしいものである」と評された。

城跡  The Citadel

 この要塞はもともと、紀元前 4 世紀にアレキサンダー大王によって建てられた。世紀を超えて繰り返される数々の攻撃にも関わらず、その姿を保ち、ヘラートの景観の中にそびえ立っている。

 ガズナ朝、セルジューク朝、ゴール朝、モンゴル、ティムール、サファヴィー朝、そしてアフガンと支配者が変わっていく中で存在し続けたこの城砦は、時の勝利者たちの面影と繁栄の歴史を思い出させるのである。

屋内バザール Covered Bazaars

 かつてバザールはアフガニスタンの至るところで見られた。がっしりとしたアーチ天井は、今でもチャハール スーク (Chahr Suq) の近くで見ることができる。かつて、中国からヨーロッパに向うキャラバンの要所であったヘラートでは、シルクやカットされていない宝石など東西の文明の輝きをバザールで見ることができた。

 現在、アフガニスタン人だけでなく観光客の目も引くような商品が並べられたバザールは、わずかながら存在する。チャパン( Chapana )という明るい色の民族衣装やカーペット、ロバの皮のホールジン、ヘラートシルク、刺繍帽、ベスト、ターバンなどさまざまな品物が並べられている。