バーミヤーン遺跡とその歴史

 バーミヤーンとは「光り輝く土地」のことである。高低を異にして畳々と連なる山並みは、それぞれに色彩を違えて美しい。北に 4000 メートルを悠に越えるヒンドゥークシュの巨大な山並みを背負い、南に5143 メートルのシャー・フォーラーディーを主峰とするコー・エ・バーバーの鋭い山稜を有し、これらの高山が東西に相並んで走る山襞のあわいに生まれたのがバーミヤーンの谷である。 厳しい自然の変化と共に人間がこの谷で織り成した多様な歴史の混然とした融合が、可視なるものとして現に存在しているバーミヤーンは、今も訪れる人びとの魂をゆさぶる。


 バーミヤーンには時代を少しずつ異にする仏教の石窟寺院がある。文化的遺産の核をなすのは、主谷の摩崖に刻まれた東、西2体の大仏立像と1000にも及ぶ石窟と、それを飾る多彩な壁画であった。ガンダーラ文化の衰滅の後、アフガニスタンのほぼ中央部に再び咲いたバーミヤ − ンの仏教文化は文明の十字路の名にふさわしく複合的で独自のものである。 

 バーミヤーンでいつ頃から仏教が始まったかは明らかではないが、仏教がヒンドゥークシュの南北で静かに、そして確実に根を下ろすのは、クシャン朝になってからのことである。紀元後2世紀から4世紀に渉って多くの佛寺が造営されていた。バーミヤーンにもっとも近いヒンドゥークシュ北側の仏教遺跡にはスルフ・コタル(3-4世紀)とハイバークの石窟寺院(4-5世紀)がある。また、ヒンドゥークシュの南側には、カピサ・ベグラム、ショトラク、パイタヴァ(2-4世紀)の僧院がすでに活発に活動をしており、カーブルのテペ・マランジャンでも佛寺が営まれていた(4-5世紀)。こうした周辺域の状況から、バーミヤーンでの造仏造寺の活動は、4世紀の末頃には既に始まっていたと考えられる。

 バーミヤーンに関するもっとも正確な情報を最初に記録したのは630 年頃バーミヤーンの王に迎えられ、この地を訪れた中国の求法僧玄奘(Hiuen Tsang =Xuan Zang) である。彼はこの15 日間の滞在後、『大唐西域記』(Da Tang Xiyu ji, ed.in 646 )にこの時の状況を書きしるした。玄奘によれば、王城の東北の山の隅に高さ140-150 尺の立仏の石像があった。(現在の55 メートルの西大仏のことである。)そしてこの大仏の東に「先王が建てた伽藍」があった。(おそらくバーミヤーン最大の座仏洞の前、地上に建てられた伽藍であろう。)さらにこの伽藍の東に高さ百尺余の立仏があったと記録されている。(現在の38 メートルの東大仏のことである)。その地には伽藍が数十ヶ所にあったと伝えているから、この時すでに今日みる石窟の半分は造営されていたと思われる。

 6世紀から7世紀にかけては、この地は西突厥の支配の下で、東西を結ぶ交易路の要衝としても重きを成したバーミヤーンの仏都としての繁栄ぶりがうかがわれる。石窟の天井や側壁を飾った仏画のどれをとっても、図像や色彩が多様で、バーミヤーンは「文化の多様性」の象徴的なモデルであるとさえいえる。

 仏都としてのバーミヤーンの最後の姿を記録にとどめたのは、慧超 (Hui Chao) であった。726 年、彼はガズニーからバーミヤーンを訪れ、往五天竺国』(Wang Wu Tianshugus Zhuan) を著している。玄奘のほぼ一世紀あと、バーミヤーンはいぜんとして仏都であったが、玄奘訪問時には小乗のみであったのに、慧超は小乗と大乗の二つの教えがおこなわれていたと伝えている。

 その後アッバース朝第2代カリフ・アルマンスール(al-Mansur 、754-775 年)のとき、バーミヤーンの王はマザーヒーム・ビン・ビスターム(Mazahim b.Bistam)のイスラーム勢に屈したという。

 バーミヤーンにイスラームの文化が深く導入されるようになるのは、ガズニー朝( 998-1030 年)のスルタン・マフムード(Sultan Mahmud) が権力を握った後のことであった。1221 年、モンゴルの大軍がバーミヤーンに攻め入り、シャル・イ・バーミヤーンを落城させ、仏教遺跡を傷つけて去ったのち、シャル・イ・バーミヤーンはシャル・イ・ゴルゴラと呼ばれ、廃城となった。人煙は絶え、バーミヤーンは忽然と歴史の闇の中に沈んだのである。


 久しく沈黙を守ってきたバーミヤーンが、再び歴史の舞台に登場するとき、不吉にもそれは砲撃の音と共であった。 1647 年、バルフよりカーブルへと退却の途中、ムガール朝の皇帝アウラグゼーブは、腹いせに大仏に向かって砲弾を撃ち込んだのである。西大仏の左右の足の破壊はこの砲撃によっておこなわれたのである。

 20 世紀中頃、アフガニスタンにおける考古調査が、国際的に広く門戸が開かれ、それぞれ視点を異にしたバーミヤーン遺跡の国際的な調査・研究が大きな高まりを見せようとしていたとき、不幸にも戦争がまたもやバーミヤーンにさらなる禍をもたらすことになったのである。戦火の中にあるアフガニスタンからの大量の流出品は、国内の異常な事態を告知するものであった。

 2000 年夏、国際的な非難の声が高まるにつれて、逆にターリバーン政権は態度を硬化させ、ついに2001 年2月26 日、ターリバーンの指導者は「この国にあるすべての偶像を破壊することが決定された」という声明を発表した。そしてその歴史的価値、その文化的意味からしてもかけがいのない貴重さを無視し、大量の爆薬を使用して蛮行におよんだのである。

 大仏の爆破は、東西の大仏だけではなかった。バーミヤーンのもうひとつの渓谷、カクラクの山肌に刻まれた高さ 6.7 mの立仏も、バーミヤーンの第二の座仏も、また、爆破されていた。バーミヤーンの不幸は、大仏の爆破だけにとどまっていなかった。2002 年秋、日本・ユネスコ合同調査団は、シルクロード上にあってインドや中国西域の壁画と深い繋がりをもった華麗なバーミヤーン壁画も、その80 %を失ってしまったことを認めないわけにはいかなかった。壁画は実に、意図的に消し去られていた。

 バーミヤーンの大仏爆破を阻止できなかった痛切な思いを発条として、流出文化財を含むアフガニスタンの文化遺産の復興と保存をどう進めるべきか、具体策を早急にまとめ、国際協力のネットワークをつくりあげ、実際の保存事業にとりかかろうとしている。

 2003 年6月、パリのユネスコ本部で「アフガニスタン文化遺産救済国際調整委員会」が開催されたが、それは、アフガニスタンの人々が平和な日常生活に立ち戻ることに加え、さらに長期的な発展の促進をも視野にとどめつつ、有形、無形のあらゆる領域の文化財の保護を押し進めることで、アフガニスタンの人々の歴史的、文化的自信を回復させ、自立への確固とした歩みを支援しよう、というものであった。

 2003 年7月には、世界遺産委員会において、バーミヤーンは緊急に救済を必要とする遺跡・文化的景観として承認され、登録された。

 バーミヤーンはかつて世界に燦然とした光を放った大仏やその周辺の壁画を失ったが、残された多くの石窟は、なお美しい壁画を有し、その多用な構造によって、宗教文化とその建築の歴史にとっても、いぜんとしてかけがえのない重要性を有している。バーミヤーンが今日まで生きてきた歴史は、イスラームの聖蹟も含めて、人間の精神が偉大な文化を生み出すことの意味を深く教えるものとして、宗教や国の違いを超えて心開らいて受け取られるべきものであろう。

(資料提供 : アフガニスタン文化研究所所長・和光大学名誉教授 前田耕作氏)